2022.02.05

なぜ同じ助(動)詞を連続させてしまうのか

私が文章を書いたり、チェックするにあたって気を付けていることがあります。「できる限り、同じ助詞/助動詞が続かないようにすること」。
少しでも文章に関わる方なら、当然と思いますよね。

分かりやすいのは、「の」の連続。
例:

会話の中で聞くと、特に違和感がありませんが、読むと引っかかるところがあります。おそらくですが、会話の場合は、話し手が無意識につけているウェイトを感じ取っているのだと思います。
それが、文字では感じられないために、同じ助詞・助動詞が連続すると関係性を把握しづらくなり、違和感があるのでしょう。

これを解消するなら、「籠の中にいる鳥」とするのが一番簡単でしょう。
ただ、わざわざ「いる」と書いたせいで、説明くさくなってしまいます。
それを避けるなら、逆に考えてみましょう。「籠の鳥」で十分通じると思いませんか?

では次の文章です。2つ挙げてみましょう。

①雨なので、私今日体育したくないです
②夜母を迎え行きます

①は「は」、②は「に」が連続しています。それぞれ、分析をしてみましょう。

①の文章では、「私は」の「は」は主格。一方で「今日は」「体育は」はいずれも強調です。
「今日はやりたくない(明日ならいい)」「体育はしたくない(算数ならいい)」という形ですね。
もしも、私がこの文章を同じニュアンスで書き換えるなら、「私は今日、雨の中で体育なんてしたくない」とでもするでしょうか。
こういう校正をする時は、思い切って原文の形を崩すことも大事です。

②の文章では、「夜に」の「に」は時間、「駅に」の「に」は場所、「迎えに」の「に」は目的の意味です。
①と同様に、私が書き換えるなら「夜になったら、駅まで母を迎えに行きます」とでもするでしょう。「夜に」「迎えに」で「に」を2回使っていますが、間に入っている字数の関係で、違和感はありません。

さて、少し極端な例でしたが、何が言いたいかといえば、同じ「助詞」を連続して使ってしまう場合は、「意味」が違うことが多いということです。

これを実感したのが、次のような文章を書いたときでした。

例:かびていてもパンだ。人には笑われるが、食べられるだけでうれしかった。

ご存じの通り、助動詞「れる/られる」は「受身・可能・自発・尊敬」の4つの意味を持ちます。
この例では、「笑われる(受け身)」と「食べられる(可能)」を連続して使用してしまったわけですね。

これが「に」や「は」なら、「よくある」だけに、それほど深く考えなかったでしょう。
それが、珍しく「れる/られる」が連続したことで気づいた、というのが、個人的には面白い発見でした。

こういう「気づき」を、私は記事や文章問題の執筆・校正に活かしています。

Witten by Y.Nakai


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