2026.02.27
高校生の私に父はこう言いました。 「大学生は自由だぞ」
法に触れることをしなければとがめられる事はない。制服もない。なんなら授業に出るも出ないも自由だったりする。そんな4年間を過ごせる大学生の魅力を私に植え付けて、大学へ進学させようとしていたのだと思います。
「自由」という名のストレス
自由と言えば、以前このコラムで「プロデューサー教育」について書いたことがあります。その時に書ききれなかった、ゲームプロデューサーM氏の考える『プレイヤーをゲーム内で自由に遊ばせることとは?』について少し追記してみます。
フィールドにプレイヤーを放り込んで「さぁ!あなたは自由です。何でも好きなことをしてください」と突き放すと、プレイヤーは何をしてよいのかわからず、かえってストレスを感じてしまいます。 M氏いわく、自由度の高いゲームとは『プレイヤーの置かれたその状況下で行うであろう行動をなるだけ多く選択可能にしてあげること』なのだそうです。
遊びや楽しさを提供する「ゲーム内の自由」とは、作り手が用意した心地よい選択肢の範疇にあるものだと言えるのでしょうね。
大学生の自由とゲーム内の自由との相違点
では、大学生の自由とは、ゲーム内の自由と同じようなものでしょうか。
ある程度の時間でクリアさせるために指針を提供するゲームに対し、大学生活は卒業や就職などというゴール(主菜)はあるものの、サークル・バイト・遊び・恋などの副菜もたっぷりあります。あの有名な「髭の配管工」は、星状のものを食べて無敵な自由状態になりますが、基本的には定められた1つのゴールに向かうことを強要されます。しかし大学生はゴールへ向かわない選択肢すら持っているのです。つまり大学生(モラトリアムからの脱却を目前にした若者)は、広大すぎる自由の中から、将来を見据えた選択肢を自ら探し出し、時には創り出し、それを実行していかなくてはならないのです。
「自由」という名の責任を乗りこなすために
かつてやれイベントだコンパだと今日では死語とされ、若者に蔑まれがちな「飲みニケーション」を謳歌した我々に突き刺さる『嘔吐』の著者であるフランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルはこう主張しています。
「自由とは避けられない“選択の責任”である」
高校までの「管理された学習」は、大学に入った瞬間に『自由の皮を被った自己責任』へと変貌します。このあまりに急激なギャップに戸惑い、何をすればいいか分からず立ち尽くしてしまう学生は少なくありません。
初年次教育とは、まさにこのギャップを埋めるためのものです。 広大なフィールドに放り出された学生たちが、自分なりの「正解」を選び取れるようになるための羅針盤を渡すことと考え、弊社では、BASIC.StudyCampというe-learning教材を通じてそのお手伝いをさせていただいております。
Written by S.Seki